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パリ国立高等音楽・舞踊学校

パリ国立高等音楽・舞踊学校(Conservatoire National Supérieur de Musique et de Danse de Paris)は、フランスにおける音楽・舞踊教育のための最高学府。音楽の高等教育機関としては世界最高峰の歴史と伝統を誇る。今なお世界有数の音楽教育機関として知られており、現在も各国精鋭の学生らが集う。

かつてはフランス国立高等音楽院と訳されることが多かったが、現在では、俗称(Le Conservatoire、Conservatoire de Paris、Conservatoire national de musique de Parisなど)をそのまま転写したと見られる「パリ音楽院」、「パリ国立音楽院」、「コンセルヴァトワール」などの「日本語名」が偏在しており、これでは隣接した機関と混同するなどして大変誤解を招きやすい。パリ国立高等音楽・舞踊学校またはCNSMDP(仏語での発音に基づくカナ転写は「セー・エヌ・エス・エム・デー・ペー」)が最も的確かつ明瞭であるといえる。また、名称の混乱に関しては、その歴史的変遷のためもあるが、これ以上は、フランス国立高等音楽院、コンセルヴァトワールの項を参照のこと。

単に「パリ音楽院」、「パリ国立音楽院」、「コンセルヴァトワール」と言った場合は、この学校(CNSMDP)を指していることが多い。ただしパリにはこのほかにもパリ地方国立音楽院(Conservatoire National de Région de Paris通称CNR)や、17に及ぶパリ各区の市立音楽院(Conservatoires municipaux de Paris)があり、混同される事も多い。中にはそれを承知で故意に『パリ音楽院卒業』と不明瞭な表記をする留学経験者も少なからずいる。

教員は一流の音楽家で構成され、高い水準の教育を行い、数多くの歴史的作曲家や音楽理論家、優秀な演奏家、音楽教育者を輩出している。

専攻別で入学の年齢制限が設けられており、特にピアノ・ヴァイオリンなどの専攻科目は年齢が低いことが特徴。

22歳:ピアノ、ヴァイオリン、フルート、ハープ
24歳:サキソフォン、クラリネット、ファゴット
26歳:上記以外の弦楽器・管楽器、ギター、オルガン、音楽理論
28歳:ピアノ伴奏法、即興演奏、作曲

卒業資格 [編集]
2000年度までは、入学後、卒業資格を得るための主な必要最低年数は3年(科によっては2年)であり、一つの科に最大で4年間まで(科によっては3年)在学が可能であった。一等賞(プルミエ・プリ)でない限りは卒業生とみなされなかったため、3回まで卒業試験を受ける事が出来た。2000年度より、除籍退学とならない限り、très bien(優)、bien(良)、assez bien(可)の成績が添えられた卒業資格(Diplome Formation Supérieure)が与えられるようになった。 2008年度より、エラスムス計画促進のため、LMD(Licence-Master-Doctorat)制度に基づいた学士相当(3年)、修士相当(2年)の完全5年制が導入された。これにより、欧州各国の音楽院、音楽大学との交換留学に弾みがつくことが期待される。またこれにより、専門課程(Cursus)の学生は、各々の学科における専門授業を全てtrès bienまたはbienの成績で修めた場合、学士相当(Certificat)および修士相当(Prix)のディプロムを与えられることとなった。また、ソルボンヌ大学(パリ第四大学)との提携により、希望者はSNCMの専門過程と平行して同校の学士過程(Licence)音楽学専攻に在籍することが可能となった。卒業資格としては、フランス特有のグランゼコールシステムから大学制度のそれへの移行を意味するが、これによって特に入試選抜の難易度や、定員数、教育内容、卒業試験の方法に変化があるわけでは今のところない。

1795年に創立され、初代院長はベルナール・サレット(作曲家)であった。1911年にパリ8区のマドリッド通りに移転し、さらに現在はパリ19区のヴィレット公園内にある。現在の校舎の建築設計はクリスチャン・ド・ポルザンパルクによるもの。

外国人差別が想像を絶するほど酷かった19世紀、フランツ・リストは入学を許されることはなかった。スペインのピアニスト兼作曲家のイサーク・アルベニスは「ガラスを割って入学を延期」したかのように伝わっているが、実際には入学試験に落ち、ブリュッセル音楽院へ飛ばされた後はスコラ・カントルムで教え、生涯この学校への憎悪を隠し持っていた。フェルッチョ・ブゾーニがアントン・ルビンシテインにこの学校への留学を相談したところ、「あんなところには行くのを止めておけ」と返したことは有名である。伝統を保持する(conserver)と言う意味の学校名が示すように伝統に固執し、ときには多くの才能ある学生を取りこぼしたこともあった。オリヴィエ・メシアンやモーリス・ラヴェルはその才能にもかかわらずローマ賞を取ることが出来なかった。音楽院の職にあったカミーユ・サン=サーンスは学生のアルフレッド・コルトーに向かって、「へぇ、お前でもピアニストを目指すのか」と皮肉った。このようなこともあったが、教育機関としては世界最高の位置のひとつにある名門であることには間違いない。

教育・研究の一環として演奏団体も持ち、1828年に創立されたパリ音楽院管弦楽団 (L'orchestre de la societe des concerts du conservatoire) は1967年パリ管弦楽団に改組消滅するまでフランス有数の名オーケストラとして知られた。 かつてのスコラ・カントルム(ヴァンサン・ダンディが設立)やエコールノルマル音楽院(コルトー・オーギュスト・マンジュオが設立)は、この学校と様々な面において対立関係にあった。

主な歴代院長 [編集]
ベルナール・サレット(1795 - 1815)…初代院長
フランシス・ペルヌ(1815 - 1822)
ルイジ・ケルビーニ(1822 - 1842)
フランソワ・オーベール(1842 - 1871)
アンブロワーズ・トマ(1871 - 1896)
テオドール・デュボワ(1896 - 1905)…『ラヴェル事件』で辞職
ガブリエル・フォーレ(1905 - 1920)…音楽院改革を行い、《ロベスピエール》とあだ名された。
アンリ・ラボー(1920 - 1941)
クロード・デルヴァンクール(1941 - 1946)

主な生徒 [編集]
シャルル=ヴァランタン・アルカン
カミーユ・サン=サーンス
ジョルジュ・ビゼー
パブロ・デ・サラサーテ
エルネスト・ショーソン
クロード・ドビュッシー
ポール・デュカス
エリック・サティ
ピエール・モントゥー
ジョルジェ・エネスク
エドガー・ヴァレーズ
ナディア・ブーランジェ
ノエル・ギャロン
アルテュール・オネゲル
ダリウス・ミヨー
ジェルメーヌ・タイユフェール
ジョルジュ・オーリック
モーリス・ラヴェル
ジャック・イベール
アーロン・コープランド
ホアキン・ロドリーゴ
ウジェーヌ・ボザ
モーリス・デュリュフレ
ピエール・シェフェール
オリヴィエ・メシアン
ピエール・サンカン
アンリエット・ピュイグ=ロジェ
ピエール・モントゥー
ジェラール・スゼー
ネヴィル・マリナー
アンリ・デュティユー
ピエール・アンリ
ピエール・ブーレーズ
カールハインツ・シュトックハウゼン
ミシェル・ルグラン
ヴィンコ・グロボカール
リュク・フェラーリ
フランソワ・ベルナール=マーシュ
ベッツィ・ジョラス
アラン・ゴーサン
フィリップ・マヌリ
ジェラール・グリゼイ
アラン・ルヴィエ
トリスタン・ミュライユ
ミカエル・レヴィナス
フィリップ・ルルー
フィリップ・ユレル
リチャード・クレイダーマン
ローラン・テシュネ
パスカル・デュサパン
フレデリック・ドゥリュー
エレーヌ・グリモー
ドゥニ・デュフール
ジェラール・ペソン
マーク・アンドレ・ダルバヴィ
レジス・カンポ
ブルーノ・マントヴァーニ

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2009年04月10日 13:13に投稿されたエントリーのページです。

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