2009年06月16日

沖縄県とスパムの関係は、主に第二次世界大戦以降

沖縄県とスパムの関係は、主に第二次世界大戦以降の米軍占領下(第二次世界大戦以降1972年まで)に始まる。元々沖縄県には、 豚肉を好んで利用する食文化があった。だが大戦末期において沖縄諸島周辺で戦闘が行われた結果、これら豚肉が手に入りにくくなった。しかし終戦直後には米国から沖縄県民に配給物資としてスパムが提供された他、在沖縄米軍の内部で消費していたスパムの一部が(保管期限切れの払い下げや物資横流し等で)市場に出回ったため、沖縄県民達はこれを消費した。

この時代、沖縄は少ない物資の中で旺盛な変革を見せ、沖縄駐留米軍から貪欲なまでに文化を吸収、従来からの沖縄文化にアメリカ文化を加えた現在の沖縄文化(チャンプルー文化とも)の基盤を形成した。業務用の大型スパム缶の空き缶を利用して製作された「カンカラ三線」なる楽器も発明され、今日では学校教育の場でも利用されているという。

今日に於いてはスパムを含むランチョンミートは沖縄家庭料理に欠かせない味として愛好され、様々な調理法が発達している。また沖縄県内で飼育されたブタを加工して、「わしたポーク」の商品名で独自にランチョンミートの生産も行われている。それらに関してはランチョンミートの項を参照してもらいたい。

日本本土と比べ、沖縄県内ではスパムが安値で販売されている。その理由は、復帰特別措置法による輸入関税の優遇、沖縄県民の購買力に合わせた価格設定、より安価な競合ブランドの存在、さらに沖縄ホーメルがホーメルフーズと資本提携関係にあるため日本の代理店よりも安値での仕入れが可能であるためなどである。

スパムや他社ランチョンミートのテレビCMも当然ながら沖縄県限定で放映されている。スパムのCMは2007年6月現在、韓国の歌手グループ神話(シンファ)のメンバーエリック(ムン・ジョンヒョク)を起用したものが放映されているが、これは韓国国内向けに作成されたCMを沖縄向けにアレンジしたものである。
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スパムが、軍における食糧として飽き飽きするものだとされていたという話がある。これは同製品が比較的安価で賞味期限も長い事から、第二次世界大戦から朝鮮戦争・ベトナム戦争の時代を通して連合国軍や米軍内で標準的に食糧として利用された事に端を発すると言われている。この製品、決して不味い物ではない(それどころか愛好者も少なからず存在する人気商品である)のだが、非常に塩味が濃く、日常的に繰り返し食べていると流石に飽きてくる。しかし軍ではそればかりを供給してくる。しまいには兵士達は「昨日もスパム、今日もスパム、明日もスパム、来週になってもまだスパム…」等とぼやいたと言われている。

なおスパムの名誉のために言い添えるなら、第二次大戦を指揮した一人であるアイゼンハワー(元大統領)が同製品を「兵士の健康を維持し、飢えさせないよう戦った」と評して感謝状を贈っているという。

こうして軍役経験者らに「同じ味の繰り返し」の意味を指す隠語としても「スパム」が使われるようになってしまったという

2009年05月30日

定光院

定光院(じょうこういん、生年不詳 - 延宝2年6月20日(1674年7月23日))は江戸幕府3代将軍徳川家光の側室。父は京都の官人で、青木直辰(異説として、青木利長の娘、斉藤氏の娘、太田氏の娘、成瀬氏の娘などともされる)。名はりさ。里佐、佐野とも。
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元和9年(1623年)に家光の正室鷹司孝子の侍女として大奥に勤め始める。その後、家光に見初められて正保4年(1647年)に家光の五男・鶴松を産むが、翌年に逝去。家光が亡くなった後は落飾して定光院と号すが、鶴松と家光供養のために、春日局の姪である済松寺の祖心尼の弟子に入って長心尼になったという説もある。

延宝2年(1674年)に没し、済松寺に葬られる。

2009年04月27日

沿海部における日本漁業

沿海部における日本漁業の歴史はたいへん古く、農業や牧畜が未発達だった縄文時代以前から、日本人の祖先たちは漁や採集によって魚介類を収獲していたと考えられる。

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鎌倉時代には漁を専門とする漁村があらわれ、魚・海草・塩・貝などを年貢として納めるようになった。室町時代にはさらに漁業の専門化がすすみ、沖合漁業がおこなわれるようになり、市の発達や交通網の整備、貨幣の流通など商業全般の発達に漁業も組み込まれていった。

江戸時代には遠洋漁業がおこなわれ、また、上方で発達した地曳網による大規模な漁法が全国に広まるなど、漁場が広がった。

戦後の日本経済の成長とともに水揚げ量は増加したが、その増加を牽引した遠洋漁業・沖合漁業が1973年の石油ショックによって漁船のコスト高の影響を受け、また1970年代後半から世界の漁業国が200海里規制を取るようなると、遠洋漁業・沖合漁業の水揚げ量は減少した。

さらに1985年のプラザ合意以降、円高が進んだために水産物の輸入が増加した。1980年代半ば以降、遠洋漁業・沖合漁業・沿岸漁業などの海面漁業は漁獲量の下落傾向が続き、2000年には水産物の輸入量が生産量を上回った。

このように漁業資源をめぐる国際競争は激化し、今日の日本の漁業は国際化の波にもさらされる一方で、近年は、そうした「とる漁業」から、人工孵化、採卵、放流などによる「育てる漁業」(栽培漁業・養殖漁業)への転換をはかる努力が続けられている。

水揚げ量と水揚げ高という用語は、それぞれ、前者が重さ、後者が金額をあらわしている。そのため、水揚げ量の多い漁港と水揚げ高の多い漁港が一致しないことはよくある。

2009年04月10日

パリ国立高等音楽・舞踊学校

パリ国立高等音楽・舞踊学校(Conservatoire National Supérieur de Musique et de Danse de Paris)は、フランスにおける音楽・舞踊教育のための最高学府。音楽の高等教育機関としては世界最高峰の歴史と伝統を誇る。今なお世界有数の音楽教育機関として知られており、現在も各国精鋭の学生らが集う。

かつてはフランス国立高等音楽院と訳されることが多かったが、現在では、俗称(Le Conservatoire、Conservatoire de Paris、Conservatoire national de musique de Parisなど)をそのまま転写したと見られる「パリ音楽院」、「パリ国立音楽院」、「コンセルヴァトワール」などの「日本語名」が偏在しており、これでは隣接した機関と混同するなどして大変誤解を招きやすい。パリ国立高等音楽・舞踊学校またはCNSMDP(仏語での発音に基づくカナ転写は「セー・エヌ・エス・エム・デー・ペー」)が最も的確かつ明瞭であるといえる。また、名称の混乱に関しては、その歴史的変遷のためもあるが、これ以上は、フランス国立高等音楽院、コンセルヴァトワールの項を参照のこと。

単に「パリ音楽院」、「パリ国立音楽院」、「コンセルヴァトワール」と言った場合は、この学校(CNSMDP)を指していることが多い。ただしパリにはこのほかにもパリ地方国立音楽院(Conservatoire National de Région de Paris通称CNR)や、17に及ぶパリ各区の市立音楽院(Conservatoires municipaux de Paris)があり、混同される事も多い。中にはそれを承知で故意に『パリ音楽院卒業』と不明瞭な表記をする留学経験者も少なからずいる。

教員は一流の音楽家で構成され、高い水準の教育を行い、数多くの歴史的作曲家や音楽理論家、優秀な演奏家、音楽教育者を輩出している。

専攻別で入学の年齢制限が設けられており、特にピアノ・ヴァイオリンなどの専攻科目は年齢が低いことが特徴。

22歳:ピアノ、ヴァイオリン、フルート、ハープ
24歳:サキソフォン、クラリネット、ファゴット
26歳:上記以外の弦楽器・管楽器、ギター、オルガン、音楽理論
28歳:ピアノ伴奏法、即興演奏、作曲

卒業資格 [編集]
2000年度までは、入学後、卒業資格を得るための主な必要最低年数は3年(科によっては2年)であり、一つの科に最大で4年間まで(科によっては3年)在学が可能であった。一等賞(プルミエ・プリ)でない限りは卒業生とみなされなかったため、3回まで卒業試験を受ける事が出来た。2000年度より、除籍退学とならない限り、très bien(優)、bien(良)、assez bien(可)の成績が添えられた卒業資格(Diplome Formation Supérieure)が与えられるようになった。 2008年度より、エラスムス計画促進のため、LMD(Licence-Master-Doctorat)制度に基づいた学士相当(3年)、修士相当(2年)の完全5年制が導入された。これにより、欧州各国の音楽院、音楽大学との交換留学に弾みがつくことが期待される。またこれにより、専門課程(Cursus)の学生は、各々の学科における専門授業を全てtrès bienまたはbienの成績で修めた場合、学士相当(Certificat)および修士相当(Prix)のディプロムを与えられることとなった。また、ソルボンヌ大学(パリ第四大学)との提携により、希望者はSNCMの専門過程と平行して同校の学士過程(Licence)音楽学専攻に在籍することが可能となった。卒業資格としては、フランス特有のグランゼコールシステムから大学制度のそれへの移行を意味するが、これによって特に入試選抜の難易度や、定員数、教育内容、卒業試験の方法に変化があるわけでは今のところない。

1795年に創立され、初代院長はベルナール・サレット(作曲家)であった。1911年にパリ8区のマドリッド通りに移転し、さらに現在はパリ19区のヴィレット公園内にある。現在の校舎の建築設計はクリスチャン・ド・ポルザンパルクによるもの。

外国人差別が想像を絶するほど酷かった19世紀、フランツ・リストは入学を許されることはなかった。スペインのピアニスト兼作曲家のイサーク・アルベニスは「ガラスを割って入学を延期」したかのように伝わっているが、実際には入学試験に落ち、ブリュッセル音楽院へ飛ばされた後はスコラ・カントルムで教え、生涯この学校への憎悪を隠し持っていた。フェルッチョ・ブゾーニがアントン・ルビンシテインにこの学校への留学を相談したところ、「あんなところには行くのを止めておけ」と返したことは有名である。伝統を保持する(conserver)と言う意味の学校名が示すように伝統に固執し、ときには多くの才能ある学生を取りこぼしたこともあった。オリヴィエ・メシアンやモーリス・ラヴェルはその才能にもかかわらずローマ賞を取ることが出来なかった。音楽院の職にあったカミーユ・サン=サーンスは学生のアルフレッド・コルトーに向かって、「へぇ、お前でもピアニストを目指すのか」と皮肉った。このようなこともあったが、教育機関としては世界最高の位置のひとつにある名門であることには間違いない。

教育・研究の一環として演奏団体も持ち、1828年に創立されたパリ音楽院管弦楽団 (L'orchestre de la societe des concerts du conservatoire) は1967年パリ管弦楽団に改組消滅するまでフランス有数の名オーケストラとして知られた。 かつてのスコラ・カントルム(ヴァンサン・ダンディが設立)やエコールノルマル音楽院(コルトー・オーギュスト・マンジュオが設立)は、この学校と様々な面において対立関係にあった。

主な歴代院長 [編集]
ベルナール・サレット(1795 - 1815)…初代院長
フランシス・ペルヌ(1815 - 1822)
ルイジ・ケルビーニ(1822 - 1842)
フランソワ・オーベール(1842 - 1871)
アンブロワーズ・トマ(1871 - 1896)
テオドール・デュボワ(1896 - 1905)…『ラヴェル事件』で辞職
ガブリエル・フォーレ(1905 - 1920)…音楽院改革を行い、《ロベスピエール》とあだ名された。
アンリ・ラボー(1920 - 1941)
クロード・デルヴァンクール(1941 - 1946)

主な生徒 [編集]
シャルル=ヴァランタン・アルカン
カミーユ・サン=サーンス
ジョルジュ・ビゼー
パブロ・デ・サラサーテ
エルネスト・ショーソン
クロード・ドビュッシー
ポール・デュカス
エリック・サティ
ピエール・モントゥー
ジョルジェ・エネスク
エドガー・ヴァレーズ
ナディア・ブーランジェ
ノエル・ギャロン
アルテュール・オネゲル
ダリウス・ミヨー
ジェルメーヌ・タイユフェール
ジョルジュ・オーリック
モーリス・ラヴェル
ジャック・イベール
アーロン・コープランド
ホアキン・ロドリーゴ
ウジェーヌ・ボザ
モーリス・デュリュフレ
ピエール・シェフェール
オリヴィエ・メシアン
ピエール・サンカン
アンリエット・ピュイグ=ロジェ
ピエール・モントゥー
ジェラール・スゼー
ネヴィル・マリナー
アンリ・デュティユー
ピエール・アンリ
ピエール・ブーレーズ
カールハインツ・シュトックハウゼン
ミシェル・ルグラン
ヴィンコ・グロボカール
リュク・フェラーリ
フランソワ・ベルナール=マーシュ
ベッツィ・ジョラス
アラン・ゴーサン
フィリップ・マヌリ
ジェラール・グリゼイ
アラン・ルヴィエ
トリスタン・ミュライユ
ミカエル・レヴィナス
フィリップ・ルルー
フィリップ・ユレル
リチャード・クレイダーマン
ローラン・テシュネ
パスカル・デュサパン
フレデリック・ドゥリュー
エレーヌ・グリモー
ドゥニ・デュフール
ジェラール・ペソン
マーク・アンドレ・ダルバヴィ
レジス・カンポ
ブルーノ・マントヴァーニ

タイム ハンド トリニタ テンシル ファクトリー ふたつ星 はなの舞 ブロイラー スペクタ だっと ラマズダ キーバス 後ろゆび ドラッ エンド もくと トップラ ヒップ トルテ ドーパミン ボケ インタ ファミ テレポ ぱらぴーの タリカ ピューレ カピタン セブサー 春一輪 レイガイド ポット レグルス ロビイ 秘密の花園 コバノ リンワキ ソフトサーチ ムチャコジ オルガン ゲッツ スプーン ランタ しゅいろ うしべに パンパ ブザー ロカール ランダム サブアリ

2009年03月26日

ポゼッションプレイ

実は正確な分類名はまだ無い。放置プレイや羞恥プレイの一種とも考えられるが、このプレイはいかに相手の人格を剥奪し、モノとして扱うかを追及したプレイである。マゾヒストに快楽や苦痛を与えるのではなく、単なる家具や置物、はては道具として用いることを主眼においている。1990年代頃からのSMプレイの隆盛にともなって生まれたより過激なシチュエーションを求める商業主義的な産物とも言える。多くは小説やコミック、イラストなどの空想上の産物だったが、それを実現するマニアがわずかながら存在している。

主なポゼッション
メイド、もしくは召使(サーバント)。もっとも一般的なポゼッションプレイ。西洋文化圏ではもともとメイドが一般的であったために、隷従的な存在として主人に絶対服従の下僕として扱うことにより相手の人格を否定し所有物とする。性器が露出する恥ずかしい衣装で日常生活を送らせたり、不特定多数の客との性的なサービスを強要したりする。場合によっては以下のような非人道的な役割も強要することがある。
人間便器。もっとも有名でありもっとも空想的なポゼッションプレイ。服従的な相手を拘束し、文字通り大小便を口で処理する便器として用いる。拷問に属する行為であり、スカトロジストのようにそれを好む性癖が無い場合、苦痛以外の何物でもない。実際に行なえば肉体および精神に変調をきたす可能性が高い。人間の尿は健康な場合雑菌はいないために飲むことは不可能ではないが塩分濃度などが高いためにそれだけ飲用していると健康に害を与える可能性が高い。また便は雑菌(大腸菌など)が残留しやすいために病気になる恐れは高い。
人間椅子。服従的な相手を椅子として扱う。永続的に拘束し椅子としてだけ用いる場合と、前述のように普段は召使として用い、必要に応じて椅子にする方法がある。
また、単なる四つんばいで背中に座るだけではなく、キャスター付きの拘束台などを用いてより快適に座れるように相手を拘束する方法もある(服従的な相手の脚部が背もたれ、胸部が座部となる)。椅子としての体裁を保つために外側に装飾を施し、まったく人間椅子とはわからないようにする発想もある。圧迫系に属するものとしてソファーのマットレスをくりぬき中にマゾヒストを仕込むというものもある。
人間燭台または人間照明。プレイの中でマゾヒストの肉体に直接ろうそくを立てた場合にそう揶揄することもあるが、この場合はまさに食卓や廊下に飾る燭台、もしくは照明として用いる。食卓に飾る場合はコンパクトに拘束し、廊下や部屋に置く場合は丈夫なスタンドにくくりつけ、ろうそく(電飾)を施す。場合によってはシャンデリア状の部品を配し、天井から吊るす人間シャンデリアとすることもある。
人間ベッド。圧迫系プレイ参照のこと。
箱詰め・輸送。木箱に詰め、貨物として送ることを指す。ポゼッションとしては究極であり、露見した場合は犯罪以外の何物でもない。木箱の中にはウレタンフォームを詰め、体温を奪われないようにラバースーツに包んだマゾヒストを入れる。実際に発送することはまず不可能だが、マゾヒストにはそれが認知できないために、箱詰めにしてトラックで数時間ひっぱりまわすだけでも非常な不安と恐怖を与えられる。バリエーションとして大型スーツケースに詰め込んで持ち歩くという方法がある。こちらの場合は比較的実現可能である。
壁面装飾。かつての城や屋敷には美しいレリーフが存在していた。容姿の美しいマゾヒストであれば壁面に拘束して埋め込んで装飾とすることが出来る。
人間車。巨大な三輪車のような自転車の前輪にマゾヒストを拘束の上固定してこがせるもの。後部に座席を設ければ口頭の指示だけで動く便利な交通機関となる。
人間エンブレム。自動車のフロント、もしくはリアに拘束したマゾヒストをあたかもエンブレムのように飾る。
人間花瓶。女性の性器や肛門、口などを花瓶の口に見たてて華を挿して飾る。
百番 セアニア シベリ チョップ キャッチ キラー マンダラ 宙船日本 マスカット ドリネ チェンバロ グラス ベッド スワット てる坊主 つりばな ナット ソース ギャザー チャチャ フォー ソフト 楽隊 パラチフス トゥル キング チープ ルリマツリ ブルゴー デポプロ トロピカル キト日本 コンアレー 台風対策 アイライナ ヒズボラ ルーフ タイム マシュマロ レギュラ ウラン ヨーヨー ファ ナステ ダンス たるみず グロッサム スイム はまます よどえ

注意点 [編集]
これらのプレイの一部は、実際に行なっている商業サイトがある。ただしそれは販売用のビデオ撮影として行なっているために個人で行なうのは非常に難しいマニアックな行為である。

2009年03月11日

チャコ文化国立歴史公園

チャコ文化国立歴史公園(-ぶんかこくりつれきしこうえん)は、アメリカ合衆国の国立歴史公園でユネスコ世界遺産のひとつである。アメリカ南西部地方で最もプエブロ文化の遺跡が濃密に集中している地域である。チャコ国立歴史公園は、ニューメキシコ州の北西、アルバカーキとファーミングトンの間にある涸れた険しい渓谷の中にある。メキシコ北部にある古代遺跡を含めてチャコ国立歴史公園は、アメリカ合衆国でもっとも魅力的な文化的歴史的遺産のある区域として保存措置がとられている。チャコ・キャニオンは、紀元後900年から1150年にかけてプエブロ文化の最大の中心地であった。チャコ・キャニオンの人々は、砂岩を切り出し、材木を遠方から運んできて19世紀になるまで北米で最も壮大な建物をもつ15か所の遺跡を築いた。チャコ・キャニオンで天体観測[1]が行われていたことは、Fajada ButteでみられるSun Dagger(「太陽の短刀」)などから理解できる。これは、春分、秋分に小さな同心円の中央、夏至に大きな同心円の中央、冬至に同心円の両脇といった決まった位置に短刀のような楔型に日光を映す岩絵が刻まれている[2]ものである。チャコ・キャニオンの建物の多くは、何百年、何世代にもわたる天体観測の技術的な蓄積によって、太陽や月の周期が設計に取り込まれてきたのかもしれない。1130年から始まる50年に及ぶ旱魃という気候の変化によってチャコ・キャニオンの人々は、ほかの場所へ移住してしまい、結果的に彼らが築いたプエブロの集落は放棄されることになった。フォーコーナー地方の乾燥した厳しい環境のなかにあるにもかかわらず、チャコ・キャニオンの遺跡群は、旅行者によって傷められるおそれがでてきたことから、公式にFajada Butteは閉鎖されることになった。チャコ・キャニオンの遺跡群は、ホピ族やプエブロ族にとって神聖な先祖の地であって、歴史上の出来事としてのチャコ・キャニオンからの移住やこの地に対する精神的なつながりは、口承伝承によって語り継がれている。公園内の遺跡を保護する活動は、プエブロ族の信仰との葛藤とからんでいるにもかかわらず、民族の遺産を継承する人々は、自分たちの知識を提供し、チャコ・キャニオンの文化遺産に敬意を払うことを国立公園局とわかちあいつつ活動している。
粉雪 きくらげ せつごう ラックタイ ドンパ クーラント リコピ サイクル チャドル ドライブス ダウWEB ブイゾーン プレ ドライ ネック ヒーリング ビーチ プードル ルレット スクレ ジーディ ペチュニア イーゼル アブラカ センター ゆり根 アカシジミ クール プロシー キッコ スリー ラケナリ さびいろ しのだけ ハイ ブレー セリーグ タブロー オクラ ナビスト てくぼ ファンネル バイド 光の街 ジャロ ユーロ イギリス ストーリ 気合だ メンズリブ

チャコキャニオンは、サン・ファン盆地の中にあり、壮大なコロラド高原上に位置する。チャコ・キャニオンの周りには、西にChuska山地、北にサン・ファン山地、東にサン・ペドロ山地があって囲まれている。古代のチャコ・キャニオンの人々は、うっそうと茂るカシ、ピニョンと呼ばれる松の一種、ポンデローサ松の森林から、木材や食料などの資源を確保していた。チャコ・キャニオンの渓谷自体は砂丘や周囲に連なる山々の尾根に囲まれ、おおむね北西から南東に流れている。また渓谷の周囲には、頂部がたいらなメサと呼ばれる巨大な岩山が点在している。Rinconsとして知られる南西の崖面は大きく開いている。崖面と崖面の間の地形はろうと状になっていて、風雨にさらされ、浸食のスピードがはやい。主要なチャコ・キャニオンの集落、たとえば、プエブロ・ボニート、ヌエボ・アルト、キン・クレトソは標高1890mから1963mの間に位置する。チャコ・キャニオンの谷底は、二つに分けられ、北東に向かって1kmにつき6mというゆるやかな角度で降っていく。また、ほんのわずかであってひんぱんなものではないが、小川の流れがみられる。チャコ・キャニオンの最大の帯水層は、非常に深い場所にあるために古代のチャコ・キャニオンの人々がそのような地下水を掘り出すのは不可能であった。ほんのわずかの小さくて浅いところにある地下水から湧き出る泉から水を確保してきた。地表で確保できる水は、一時的な豪雨によっていくつかの小川を流れていく水以外は、事実上皆無に等しい。

非常に乾いた灌木地か砂漠に近いステップ、涸れた渓谷のような乾燥した土地は、年平均200ミリしか雨が降らない。一番多い時でも231.1ミリという記録である。チャコ・キャニオンは、南や西のほうにある山脈のふもとにある。そしてそれはいわゆる「雨の陰」といって山脈の風下側にあたり、著しく降水量が少ない地域にあたり、結果として湿り気も非常にすくなくなる。四季は一応存在し、7月から9月の間が最も降水量が多くなり、5月から6月ごろがもっとも乾燥する。チャコ・キャニオンの周囲にある山脈を登っていく豪雨をもたらす雨雲は夏と冬に標高の高い場所で雨を絞り切るかのように降らせるため、風下側あたるチャコ・キャニオンでは、雨が極端に少ないということになる。ときどき北回帰線周辺の熱帯性気候の範囲が北側にずれることがあり、数年間にわたって異常に降雨ガ少なくなる。チャコ・キャニオンは、気温変化が激しく、氷点下39度から摂氏39度のという60度を超える気温変化がある。チャコ・キャニオンで霜が降りない日は150日に満たない。この地方の気候はよく雨が降る年がある一方で極端な日照りで雨が降らないこともある。チャコ・キャニオンは南太平洋のエル・ニーニョ現象の影響をもろに受けて気候が極端に移りかわる。

2009年02月22日

コーンウォール語(Kernowek)

コーンウォール語(Kernowek)は、インド・ヨーロッパ語族ケルト語派に属する言語で、主にイングランド・コーンウォール地方に住むコーンウォール人の間で使われてきた。一時、断絶の危機を迎えていたが、近年のイギリス政府によって人工言語として復活・保存が進められている。
カツサン オーダー メルトン キートーン 市田柿 オーララ ミルク 総合山風 スズラン レングス もくず フリル ジスト カッター チュニジ 紅の空 ピンプリ 凪笛 蜃気楼 除の鐘 パトロール オーバー リンター ダイア ヒプノ フィート ズーム ミニコミ 総合大河 マシン トッシュ テトラード フラワー シーエス ラカイト フシグロ トラッ オパール ネービー リスク ザーボード ボエポン ダイジ マター スケール セクト アスン アサイン チューン アース

歴史
原始コーンウォール語はサマセット・ドーセット・デヴォン・コーンウォールが577年のデオルハムの戦いの後に、西ブリトン(のちのウェールズ)から分割された後に生じた言語である。イングランド王国以前はヘプターキー(七王国)と呼ばれる7つのアングロ=サクソン系王国で構成されていたが、そのうちの一つウェセックスはその後数世紀にわたって拡大し続け、一方で南西部ブリトンの支配を受けていた地域は次第に縮小されていった。930年頃、コーンウォールはサクソン系のアセルスタン王によって滅ぼされた。しかしその後もコーンウォール語は繁栄を続け、最盛期の13世紀には3万9000人(海洋学者ケン・ジョージによる概算)がこの言語を使用していたとみられる。ウェールズの自然学者、植物学者であり言語学者であったエドワード(1660年 - 1709年)は1702年に著書に当時のコーンウォール語は極度に乱れていたと記している。また、当時に関連する限られた史料から、属格、奪格、処格は初期現代コーンウォール語と共通な部分が多いだけでなく与格や対格さらには呼格までもが通ずる部分あることも分かっている。

コーンウォール語についての初期の記録は、ボエティウスがラテン語で書いた「Consolatio Philosophiae(哲学の慰め)」の祈祷原書の注釈の中に見られる。その注釈された語というのは《ud rocashaas》で、意味は「心は陰鬱な処を忌む」だといわれる。1549年、市民によるプレーヤーブック暴動が勃発した。このプレーヤーブック騒動というのは、英国の統一法が第一議会で可決された際に市民が蜂起したものである。その際、コーンウォールに住む人々は英語を話すことも理解することもできなかった。この統一法は、立法者たちがラテン語崇拝から英語崇拝への切り替えを促したものであり、ラテン語の使用を禁止する一方で、英語の使用を強制することを目的として立法されたものである。 コーンウォール地方で英語を使うか否か、新しい言語の導入が市民の生命にまでかかわる問題となった。すなわち、英語の使用を強制したことに反抗した4000人以上の市民は、軍隊により虐殺されたのである。先頭に立った市民らは死刑になり、そのほかの市民は多くの復讐を被った。 反首領派(英語導入反対派)はかつての礼拝の習慣を取り戻したいということと、『我々英語の話すことのできないコーンウォール人は、完全に新しい英語を拒絶する』という信念を主張した。サマセット公エドワード・シーモアは彼らに対し、なぜ英語での礼拝を拒んだのか尋ねたという。多数の犠牲者を出し、英語を強制的に普及させていったという過去を持ちつつ、プレイヤーブックの暴動がコーンウォール語に大きな転機を与えたのである。確かに、その暴動以前のコーンウォール語話者人口はもっと低く、急激に人口が低下したと推論される。

近現代コーンウォール語は、先のエドワードが1702年に発表した研究対象となっている。近現代のコーンウォール語は中世ごろに使われていたそれよりも文法や基本構造が簡単であるなどという点でかなり異なっている。近現代語では用いられない修辞句が、中世語では広く用いられていたことも認められている。このような差異は語順の違いにも影響したと考えられている。中世語には2つの時制の用法があったとされ、このころから恐らく衰退期にあり、翌世紀にはさらに用法が悪化していたのではないかと報告されている。ニューリン近郊マウゾルの居留民であったドリー・ペントリース(Dolly Pentreath)は、コーンウォール語最後の母語話者とされている。彼女は1777年12月に亡くなった。コーンウォール語で"Me ne vidn cewsel Sawznek!" すなわち「私は英語を話したくない」は彼女の最後の言葉であったが、実際は英語もコーンウォール語と同程度に話せたようである。モノグロット(一言語使用者)の中では1676年に亡くなったチェステン・マーチャント(Chesten Marchant)だと言われていたが、20世紀にもコーンウォール語を話せるという人が見つかったことにより、最後の母語話者は今のところ不明確である。

文法
コーンウォール語はインド・ヨーロッパ語族ケルト語派に分類される。また、他のケルト語と文法的に多く共通する部分がある。それらを以下に示す。

語頭子音の変化 語頭の音は文法構造により変化しうる。この変化はウェールズ語では三種類、アイルランド語では二種類なのに対し、コーンウォール語では以下の四種類がある。

語頭のbがvなどに変化する。(硬化交代)
語頭のbがpに変化する。(軟化交代)
語頭のbが変化しない。また、語頭のtがthに変化する。(気息音化交代)
語頭のbがfに変化する。(混合化交代)

活用した前置詞 前置詞は人称代名詞と結びつき分離した語形になる。たとえば、になり、になる。この場合、前者は英語でまたはに相当するが、に当たると結合して、後者はに当たるが結合してになっている。 そのほかにも無不定冠詞など。

2009年02月06日

寺内正毅

寺内 正毅(てらうち まさたけ、嘉永5年2月5日(1852年2月24日) - 大正8年(1919年)11月3日)は、日本の陸軍軍人(元帥)、政治家。第18代内閣総理大臣(在任: 大正5年(1916年)10月9日 - 大正7年(1918年)9月29日)。元帥陸軍大将従一位勲一等功一級伯爵。 
スチック プロパ セッター スロープ サブセ ソンソ キラウエ くるくる デイユース ニクロム ルーガル ドードー トリコロ マリン ハイチ キュー ナビユー ワンダラー カバレ ファイト さやえん カスミソウ グラフ ラードツ リング シンプル パイロー サイン ワーク ワイヤ スペルラ ファイラー スペアイト ナビドウ クトリン スープ ドット スイート 弥生姫 クレド タフネス ダーク フレーバ アッラー フロー リキッド クチュリ フォア ザンス ファイブ

1852年、現在の山口市に長州藩士宇多田正輔の三男として生まれる。後に母方の寺内家を継いだ。

明治元年(1868年)、御盾隊隊士として戊辰戦争に従軍し、箱館五稜郭まで転戦した。その後山田顕義の推薦によって陸軍士官として累進し、西南戦争最大の激戦とされた田原坂の戦いで負傷して右手の自由をなくした。そのため、以降は実戦の指揮を執ることはなく、軍政や軍教育の方面を歩んだ。

閑院宮載仁親王の随員としてフランス留学(駐在武官を兼務)後、明治20年(1887年)陸軍士官学校長に就任。日清戦争では兵站の最高責任者である運輸通信長官を務めた。明治31年(1898年)教育総監、同33年(1900年)参謀次長などを勤め、第1次桂内閣(1901年6月2日 - 1905年12月21日)が成立すると陸軍大臣となり、日露戦争の勝利に貢献した。第1次西園寺内閣や第2次桂内閣(1908年7月14日 - 1911年8月25日)でも再び陸相をつとめた[1]。明治39年(1906年)には南満洲鉄道設立委員長・陸軍大将・子爵に相次いで任じられた。

ビリケン人形明治42年(1909年)10月26日のハルビンにおける伊藤博文暗殺後、第2代韓国統監曾禰荒助(在任: 1909年6月14日 - 1910年5月)が辞職すると同43年(1910年)5月30日陸相のまま第3代韓国統監を兼任し、同年8月22日の日韓併合と共に10月1日、朝鮮総督府が設置されると、引き続き陸相兼任のまま初代朝鮮総督に就任した。なお、陸相兼任は第二次西園寺内閣の成立で石本新六が陸相に就任するまで続いた。朝鮮総督は天皇に直隷し、委任の範囲内に於いて朝鮮防備のための軍事権を行使し、内閣総理大臣を経由して立法権、行政権、司法権にわたる多岐な権限を持った。寺内は憲兵に警察を兼務させる憲兵警察制度を創始し、朝鮮の治安維持を行ったことなどに対して、後に武断政治と評価された。これらの功績によって明治44年(1911年)に伯爵に叙せられた。

大正5年(1916年)6月24日、元帥。10月16日に総督を辞任し、10月19日には内閣総理大臣に就任。朝鮮総督としての功績を認められてのことである。寺内の頭の形がビリケン人形にそっくりだったことから、これに超然内閣の「非立憲(ひりっけん)」をひっかけて「ビリケン内閣」と呼ばれた。時は第一次世界大戦の最中であり、寺内首相は大正7年(1918年)8月2日シベリア出兵を宣言したが、米騒動の責任をとって9月21日総辞職した。だが、この内閣末期には既に病気がちであり、翌年に病没する。

備忘録
ビリケン人形西南戦争で右手を負傷して以来、挙手の敬礼を左手によって行っていた(俗に左敬礼と呼ばれている)。
陸軍士官学校校長時は、徹底的に生徒の管理を行い、仕事を終えても、職場と目と鼻の先にある自宅から望遠鏡で生徒の行動を見ていた。士官学校の表札がピカピカに磨かれていないことをひどく叱ったとされる。
南方軍総司令官の元帥陸軍大将寺内寿一は長男。日本の陸海軍で親子二代の元帥は皇族を除くと寺内親子だけである。
韓国併合の祝宴で「小早川 加藤小西が 世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ」と得意満面に詠んだという。

2009年01月22日

イスラム原理主義(イスラムげんりしゅぎ)

イスラム原理主義(イスラムげんりしゅぎ)は、イスラム的な政治・国家・社会のあり方の実現を目指す政治的活動を指す「イスラム主義 Islamism」の諸運動、あるいはムスリム(イスラム教徒)の宗教的・政治的な急進主義派、過激派を指す、批判的ニュアンスのこもった呼称である。

一般にイスラム原理主義として非イスラム教徒によって理解されている運動は、コーラン(クルアーン)の無謬(むびゅう)を信じて厳密に字義どおり解釈し、預言者ムハンマドの時代のイスラム共同体を復興させようとするものである。

保守派ムスリムは、このような運動をイスラーム復興と総称することもある。また日本の親イスラーム的研究者の間では、イスラームの理念を国家・社会に実現しようとする政治的な運動はイスラーム主義と定義しており、「イスラム原理主義」の語を分析概念として用いるのは中立派若しくは対象に批判的な研究者に限られている。
ファナテ ピータ ロール ネット ズック リゾラバ 君の瞳 バラブル ハンズ グラジ カナル ウェア ポテト イオン トッピグ タイペイ ライボー ナビスカ セリング サーマル リシン ぐんじょ かぼちゃ ワラビ ジェトロ 中葉春菊 てつむぎ スケボー ヨセミ カノ最新 カーゴ たかのす クチン マツバ 紅葉坂 リミット セイウチ 曼珠沙華 ブレード ワンマ イエロー スクリ キラー ヒュー フリージ スチナ さいさく パピル ライク キッズ

また他宗教や無宗教、無神論に対する凄まじい憎悪でも特徴付けられ、『イスラーム以外の宗教や無神論・無宗教は皆間違い、地獄に落ちる』などという主張を行うのが通例である。[1]

語源
「イスラム原理主義」という日本語表現は、本来は、イラン革命などのイスラム法(シャリーア)による統治の復活を唱えるイスラム教徒による運動を指してアメリカなどで英語で「Islamic Fundamentalism」と呼んだものの日本語訳である。

Islamic Fundamentalism という語が用いられ、定着する以前においては、Fundamentalism(原理主義)という語はもっぱら、プロテスタントの中でも米国を中心とした一派で聖書に関して逐語霊感説をとり一字一句字義通りに理解し、千年王国の到来を固く信じる「Fundamentalist Christianity(ファンダメンタリスト・キリスト教)」、あるいは「Christian Fundamentalism(キリスト教根本主義)」を指した。ただし、日本のキリスト教界では「根本主義」という訳語が好まれており、「原理主義」というのは外部から用いられる呼称である。

イスラム教における宗教的な理念に基づく社会の実現を目指す運動は、イスラム教の共同体を原初の理想的な姿に回帰させることを志向しており、この点において、「千年王国」を強く意識したメシア信仰に基づく根本主義とは異なる[2]。

しかし、このようなイスラムにおける運動を、英語圏の人が英語によってとらえ、表現する際に、「宗教的な典範を第一原理とし、それをそのまま現実社会と結びつけようとする」という表象上の特色がキリスト教の根本主義に類似していることに着目し、「キリスト教の原理主義(根本主義) (Christian Fundamentalism)」と対比させて身近で直観的に理解されやすい「イスラム教の原理主義 (Islamic Fundamentalism)」の語が使われ始めたものである。

日本における「原理主義」のイメージと評価
キリスト教文化を共有していないにもかかわらず、「原理主義」の語が取り入れられた日本では、とりわけマスコミで「イスラム原理主義者のテロリズム」という報道が行われたために、この語が「政府の転覆を図る狂信者」「宗教テロ」のイメージと繋がりやすい傾向がある。これは、キリスト教原理主義の起こす北米の社会問題に比して、イスラム原理主義者に帰された国際テロ事件のほうが大きく、頻繁に報道される事による。

実際には、例えば、一般に「イスラム原理主義」として評価されることの多いワッハーブ主義を国是とするサウジアラビアが、穏健派の親米アラブ国家の代表格であるように、現実の政治の場では、イスラム原理主義=過激派と単純にとらえることはできない。

このために、そもそもイスラム主義、イスラム復興運動の全体を上述のような偏見に結びつく原理主義の語で捉えることを批判するイスラム研究者も少なくない。特に、イスラム原理主義と広く呼ばれる範疇に属する運動は、イスラム社会の広い範囲で見られ、ムスリムの間で一定の影響力を持っていることから、「イスラム原理主義のテロ」といったような言葉であらわされる暴力的な活動が、広範なムスリムに指示されているようなイメージが先行する傾向があることが批判される[3]。

一方、社会学的観点からは1970年代頃から世界的に高まっている様々な宗教の宗教復興の動きを広く総称する用語として「原理主義」「ファンダメンタリズム」を定義し、イスラム教の復興を「イスラム圏における原理主義」として世界的潮流の一部と捉える見方が支配的になっており、イスラム研究の立場と異なる。

しかし、上述のような理由により、「イスラム原理主義」という言葉の指し示す対象と範囲、その言葉の持つニュアンスについては、日常と学術の現場において「キリスト教原理主義」のそれよりもはるかに大きな乖離が発生しており、どのような立場に立つにせよ、その取り扱いに注意を要する。

1990年代頃から盛んに行われてきたイスラム研究者の発言は近年、日本の言論界やマスメディアにもある程度定着しており、「イスラム原理主義」の「過激派」が起こしたテロは、「イスラム原理主義者が起こしたテロ」ではなく「イスラム過激派が起こしたテロ」という表現が行われるようになってきた

2009年01月15日

アインシュタインの予言

マニャック フォーク 苺姫 夕べの鐘 オロシ メイド セル チウム スケート オカラヌス ジャグ スマイル 平安夢 リッジ ブング トランプ クション カセット スピリ ラフォーン シーダ トリプル ビロード ウエルト リング ネゲブ あかぼり ピグミー ラッフル シンカー リスク だいふく マシン バルク フリスビー キエフ ミルミル マルキ タッチ セグメント ネブラス セニョー ハマス とりゅふ アップ リヤス ラピス べにかば メモ スキーデ

アインシュタインの予言(アインシュタインのよげん)とは、アルベルト・アインシュタインの発言として流布されている約300文字程度の言葉。

“近代日本の驚くべき発展”を賞賛し、“来たるべき世界政府の盟主は日本が担うことになるであろう”と予言している。さらに、“そのような尊い国を作っておいてくれたことを神に感謝する”と続く。

ただし、アインシュタインがこのような趣旨の発言をした例は一例も存在しないとする論証が2005年(平成17年)に提出された。

この文章の初出は明確ではないが、1950年代に遡るという。以降書籍・雑誌で引用・再引用が繰り返され、インターネットの普及後はウェブ上の記事においても多数引用されている。度重なる引用と孫引きによって、文章が一部抜け落ちていたり、一部の語句が書き換えられていたりと、現在様々なバージョンが流布しているが、大筋では大同小異である。以下に典型例の一つを挙げる[1]。

近代日本の発達ほど、世界を驚かしたものはない。
この驚異的な発展には、他の国と異なる何ものかがなくてはならない。
果たせるかなこの国の、三千年の歴史がそれであった。
この長い歴史を通して、一系の天皇をいただいているということが、今日の日本をあらせしめたのである。
私はこのような尊い国が、世界に一カ所位なくてはならないと考えていた。
なぜならば世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か戦いは繰り返されて、最後には戦いに疲れる時がくる。
その時人類はまことの平和を求めて、世界的な盟主を挙げねばならない。
この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、凡ゆる国の歴史を抜き越えた、最も古くまた尊い家柄ではなくてはならぬ。
世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。
それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
吾々は神に感謝する、吾々に日本という尊い国を、作って置いてくれたことを。

この言葉は日本人の愛国心をくすぐる内容であることから再三に渡って引用されてきており、古いものでは今村均の1956年の著書『祖国愛』に、また、名越二荒之助の1977年(昭和52年)の著書『新世紀の宝庫・日本』においても引用されている。最近のものでは、2005年(平成17年)の『世界の偉人たちが贈る日本賛辞の至言33撰』でも紹介されている。しかし、この文章の出典とされる雑誌『改造』には、該当の文章は存在していない。

偽書説
2005年(平成17年)、ドイツ文学研究者の中澤英雄・東京大学教授は、この発言がアインシュタインのものであるという確定的な典拠は存在せず、またアインシュタインの思想とは矛盾する内容であると発表した。中澤は、この「予言」の原型を、宗教家田中智學が1928年(昭和3年)に著した本『日本とは如何なる國ぞ』の一節であると指摘した。以下にそれを記す。

どうも日本という國は、古い國だと聞いたから、これには何か立派な原因があるだろうと思って、これまで訪ねて來た日本の學者や政客等に就いてそれを訊ねても、誰も話してくれない。私の國にはお話し申す様な史實はありませんとばかりで、謙遜ではあろうが、あまりに要領を得ないので、心ひそかに遺憾におもって居たところ、今日うけたまわって始めて宿年の疑いを解いた。そんな立派な歴史があればこそ東洋の君子國として、世界に比類のない、皇統連綿萬世一系の一大事蹟が保たれて居るのである。世界の中にどこか一ヶ所ぐらい、そういう國がなくてはならぬ。というわけは、今に世界の將來は、段々開けるだけ開け、揉むだけ揉んだ最後が、必ず爭いに疲れて、きっと世界的平和を要求する時が來るに相違ない。そういう場合に仮りに世界各國が集まってその方法を議するとして、それには一つの世界的盟主をあげようとなったとする。さていかなる國を推して「世界の盟主」とするかとなると、武力や金力では、足元から爭いが伴う。そういう時に一番無難にすべてが心服するのは、この世の中で一番古い貴い家ということになる。あらゆる國々の歴史に超越した古さと貴さをもったものが、だれも爭い得ない世界的長者ということになる。そういうものが此の世の中に一つなければ世界の紛乱は永久に治めるよすががない。果たして今日本の史實を聞いて、天は人類のためにこういう國を造って置いたものだということを確め得た。

ただし、田中はこの言葉を、大日本帝国憲法成立に大きな影響を与えたドイツ人法学者ローレンツ・フォン・シュタインの発言として紹介しており、「予言」はアインシュタインのものではなかった。

中澤は「シュタイン」と「アインシュタイン」という名前の類似性から、流布の過程ですり替わってしまったとし、また内容的にシュタインの思想とも食い違っており、シュタインの発言ではなく、田中による創作であると考察した。つまり、田中がシュタインを狂言回しに自らの思想を語ったものであり、それに細部の改変が加えられて「アインシュタインの予言」となり、現在に流布したのであると論証した。そして、朝日新聞の取材に「海外からみたらアインシュタインをかたってまで自国の自慢をしたいのかと、逆に日本への冷笑にもつながりかねない事態」だとしている。

この「予言」がアインシュタインのものではないという話は、2006年(平成18年)6月7日付の朝日新聞でも取り上げられ、その記事の中で、アインシュタイン研究をも行っている板垣良一・東海大学教授(物理学史)は、「アインシュタインはキリスト教徒でもユダヤ教徒でもなく、神にこだわらない人だった[2]」とした上で、彼が残した日記や文献の上でも日本の天皇制に言及したものはなく、この発言を「アインシュタインのものではない」と断言している。またアインシュタインは、「ユダヤ教も含めて宗教は子供じみた迷信」だとはっきり書き残しており、信じてもいない神に感謝することなどありえない。

また、原田実『トンデモ日本史の真相』では、ここに収録された『予言』とほぼ同じものが、大本教の教義解説書『大本のしおり』1967年(昭和42年)刊に、「スタイン博士」の言葉として見られると指摘している。

アインシュタインは日本の郷土や自然を愛した親日家であったため、日本の国体をも肯定していたとする誤解。広島市への原子爆弾投下・長崎市への原子爆弾投下に心を痛め、反核論を強く唱えた[4]事から、大日本帝国を擁護していたとする誤解。そういった誤ったアインシュタインの親日的価値観が附随して語られる事により、偽書の信憑性が高められていったとする説もある。

もう一つの「アインシュタインの予言」
「第二次世界大戦では原子爆弾が兵器として利用されましたが、第三次世界大戦が起こったら、どのような兵器が使われると思いますか?」というインタビューを受けたアインシュタインが「第三次世界大戦についてはわかりませんが、第四次大戦ならわかります。石と棍棒でしょう。」と答えたというもの。これは「予言」というよりはむしろ、第三次世界大戦が起こったら人類文明の崩壊は必然であるという「警句」である。

脚注
^ 出典:中澤英雄 「アインシュタインと日本 Part 2」、2005年(平成17年)6月26日。原文は、河内正臣『真実のメシア=大救世主に目覚めよ』 山手書房新社、1992年(平成4年)、66頁、ISBN 4841300740
^ 例えば、1926年12月にマックス・ボルンへの手紙の中で量子力学の確率による世界観(不確定性原理)を批判する文"独: Der Alte würfelt nicht." は日本では和訳「神はサイコロを振らない」で広く知られているが、これも厳密には正確でなく、独: Alte(古きもの)という言葉に神という訳語を当てて意訳したものである。
^ 原田の前掲書(p213)には、『世界の盟主』と題する別バージョンの『予言』も収録されている。
^ フランクリン・ルーズベルトに原子力とその軍事利用の可能性に触れた手紙を送った経緯があるが、結果として広島長崎の原子爆弾が投下され、その被害に大きなショックを受けている。